私は幸せになりたい?→ YES / NO
あなたは幸せになりたいと思いますか?
その答えが「NO」でなければ、少なくとも「幸せになれたら良いな」という素直な想いが、あなたの胸のうちにあるのは間違いないと思います。
あなた側の言葉を借りるなら『私は幸せになりたい』です。
世の中には非常に多くの方が『私は幸せになりたい』と思い、考えていますが、実際に幸せになっているのは、ごく一握りの人に限られているように見えないでしょうか。
まず、幸せとは「ある特定の条件・状況のことではない」点を、見てみましょう。
例えば「資産1億円」以上を持っていたら幸せとは決めつけられないですよね。
日本国内で「資産1億円」以上を持つのは、50人に1人と言われています。
あなたがそれに該当するか/しないかはともかく、日本国内の50人に1人が「私は幸せ」と感じているかどうかは、かなり微妙なところです。
これは極端な例ですが、資産を何百億円と持つ方が、精神を病んでしまっているケースを知っています。
確かに〈お金〉というのは、短期的な幸福感を生み出します。
であれば、一旦幸せに「なった」のに、また不幸せに「戻ってしまった」のでしょうか?
条件によって「なることが可能」で、その条件を下回ると「改めてなる必要がある」ものなのでしょうか?

視点を変えて、願望を見てみましょう
視点を少し変えてみましょう。
先ほどの言葉を見てみます。
『私は / 幸せに / なりたい』
①私は
②幸せに
③なりたい
ちょっと順番を飛ばして、まずは〈③なりたい〉から見てみましょう。
これは「願望」と呼べます。
あなたは願望を「叶って欲しいな」と思いますか?
実は願望は一瞬にして叶っています。
そのトリックを一緒に暴きましょう。
①→②→③
ではなく
②→③→①
の順番に入れ替えてみると、いかがですか?
「幸せに / なりたい / 私は」
最後の「は」を省くともっとわかりやすいですね。
「幸せになりたい私」
いかがでしょうか。
『私は幸せになりたい』と思っているならそれは「幸せになりたい私」が叶っています。
別の言い方をすると「幸せになりたい私」に「なって」います。
これは言葉のトリックではなく、実際にそうなのです。
例えば、あなたがノーマルの女性だとしましょう
「私は / 女性に / なりたい」とあなたは思いますか?
あなたは「女性になりたい私」ではなく『すでに女性の私』ではありませんか?
女性らしく、という言葉ならまた変わります。
「私は / 女性らしく / なりたい」と思っているのなら、あなたは「女性らしくなりたい私」です。
言葉で納得しようとせずに、あなたの感覚を頼りにしてください。
あなたが実際に〈感じていることを感じる〉のが重要なのです。
「私は / ○○に / なりたい」のであれば「○○になりたい私」であることを感じてみてください。
否定する必要はありません。
今まで無意識で暗くなっていたところに、意識という光を当てただけに過ぎません。
無理をして、思い込んでも、それは負のスパイラル。
例えば「私は○○だ……と思い込んでる私」みたいなことです。
解決していません。

そもそも「私」ってなんでしょうか?
また別の視点から見てみましょう。
『私は幸せになりたい』
その「私」とは何ですか?
探してみましょう。
例えば、身体を指差しますか?
それは代謝によって入れ替わったり、爪や髪の毛のように、自ら取り除いたりできますが、そうすると、あなたはどんどん分割されていくのでしょうか?
となると、身体はどうやら〈私そのもの〉ではなさそうです。
それでは、思考でしょうか?
確かに、私は色んなことを思ったり考えたりしますが、それも生まれては消えていくものです。
悲しいことがあれば悲しくなったり、嬉しいことがあれば嬉しくなったり、勝手気ままです。
それに、誰か他人を指差す時に、その人の思考のことを「あなた」と指差すでしょうか?
「いやいや、人の思考は人の思考。人を指差すならは、ちゃんとその人のことを指差すよ」
あれ?
不思議なことが起こりました。
先ほど「身体は私ではない」ことは確認済みでしたが、他人の場合は、その身体がその人なのでしょうか?
混乱してしまいそうですね。
身体は〈私そのもの〉でもないし、思考も〈私そのもの〉でない。
であれば、一体何処に「私」を発見できるのでしょうか?
・
・
・
「私を探している」のは、誰でしょうか?
・
・
・
「それは私の思考」でしょう。
ではそれに『気が付いているのは』誰でしょうか?
・
・
・
その『気が付いている』存在が、本当の私です。
・
・
・
そう言うと「何かになりたい私」には許せないかもしれません。
「私が考える本当の私はもっと素晴らしい存在なはずだ」と。
ややこしくなるので、ここで名称を付けてみます。
何かになりたい私を Doing と呼びましょう
Doing はいつでも何かを「変えたい」「変わりたい」「変わって欲しい」と思ったり考えたりします。
日常生活の中で「私が自分だと思ってる自分」です。
つまり身体であったり、思考であったりします。
自我やエゴとも呼ばれます。
条件によって一時の幸せを感じることもありますが、大抵長続きしません。
また自己否定や自己卑下をする傾向にあります。
「○○だから私は△△なんだ……」と落ち込みます。
○○と△△を関連付けたりするのも好きです(思考の得意なところです)。
欲求が尽きず、手に入らないとストレスが貯まり、手に入るとそれを誇示したりもします。
私の恋人、私のお金、私の家族、私の車、私の家、私の仕事、私の経験、私の知識、私の精神、私の……。
他にも〈時間という概念〉を扱うのが得意です。
今ここで気が付いている私を Being と呼びましょう
Being はいつでも今ここで気が付いています。
私から言うところの「本当の私」つまり『意識』です。
あなた好みの好きな呼び方で結構です。
『愛』と呼ばれることもありますが、Doing が考える「愛」とは全く異なります。
言わばそれは『無条件の愛』です。
それはあるがままを許し、受け入れ、解放する、自由な光……と、羅列すると、場合によっては、ちょっとクサい言葉になるかもしれませんが、実際そうなのです。
実は『幸せ』もここに属します。
私が幸せになろうとしても幸せになれない理由
私が指す私が Doing である時、私は幸せにはなれません。
目指すことはできますし、一瞬それが垣間見えることもありますが、どちらにせよ短命でしょう(何故なら時間の概念を採用しますから、始まるものは終わるのです)。
私がただ Being であるなら、ただ幸せで在れます。
むしろ『本当の幸せ』とは、ここにしかありません。
幸せになること(Doing)は叶いません
幸せで在ること(Being)はすでに叶っています。
『私は幸せになりたい』という欲求(幸せになりたい私)がやめば、私は幸せで在って当然なのです。
Doing がやんだとき、そこに見つかるのは Being なので、当たり前です。
「でもそれって、精神論みたいなことでしょ?」
むしろ現実論です。
ここに現実的な幸せも在ります。
恋人でも、お金でも、家族でも、車でも、家でも、仕事でも、経験でも、知識でも、精神でも、何でも……。
あなたの意識なしでは、あなたの世界は成り立たないのです。
もしあなたが「手に入らない」と思うのなら、それを邪魔しているのが Doing です。
Doing は手に入れるための条件付けを強固に関連付け、なかなか許可を出しません。
または「そう思い込む」ことをします。
そうではなく、ただ在ってください。
本当のあなたは Being です。

思い出そう
- 「私は幸せになりたい」=「幸せになりたい私」
- なること(Doing)では、なれないか、なっても戻る
- 在ること(Being)は、ただ幸せで在る