「死にたい」や「自殺したい」気持ちから『絶望』の本質に気付く


「死にたい」や「自殺したい」という貴重さ

あなたが今この文章を読んでいるということは、この記事にタイトルにもあるように「死にたい」や「自殺したい」という気持ちがあることに間違いはないでしょうか。

すでに亡くなってしまった人には、この文章を読むことはできません。

あなたは、死ぬべきか/生きるべきかを迷っているところでしょうか?

あるいは、どうやって死ぬべきかの方法を考えているところでしょうか?

どちらにせよ、あなたは『死』と向き合っている状態であるのだと思います。

まずそのこと自体が、非常に素晴らしい機会です。

ご自身で十分認めてください。

当たり前ですが、人の肉体には、必ず『死』が訪れます。例外はありません。

誰しもに訪れるのに、多くの方は、それと向き合うのは、肉体が病の床に就いてからか、あるいは向き合う間もなく、突然の『死』によって途切れてしまいます。

少なくとも「この文章が読める」段階において、確実に訪れる『死』と向き合っているというのは、素晴らしいことです。

例え今、絶望的な状態によって追いやられてしまっていても、鬱の状態から抜け出せずに希望が全く見えない状況にあったとしても、あなたが『死』を思い考えていることそのものが、何モノにも変えがたい素晴らしいことなのです。

「死にたい」や「自殺したい」という貴重さ

「絶望的」と『絶望』の違いを把握しましょう

先ほど挙げたように、あなたは今現在「絶望的」な状態や状況でしょうか?

少なくとも、夢や希望を持っている状態で、明るく「よし、いっちょ自殺してみっか♪」ということではないと思います(もしそうだったら、それはそれですみません)。

「絶望的」と『絶望』は全く違います

それは「カレー風味」と『カレーそのもの』の違いと同様です。

「絶望的」を漢字で見てみましょう。

絶・・・絶たれている
望・・・望み
的・・・◯◯のように

要約した部分もありますが、絶望的とはつまり「望みが絶たれているかのような」状態や状況を表しています。お伝えしたいのは決して「まだ一筋の望みはあるんだから諦めないで!」ということではありません。

ではなく、ポイントは「望みがまだあるんじゃないか」という思いが、胸の内に少しでもあると「絶望的」という状態になるのです。

さて、あなたが「死にたい・自殺したい」と思われる時、間違いなく「絶望的」が当てはまります。

「いや、絶望的じゃなくて絶望だ」と思われたかもしれませんが、順を追って見ましょう。

もし仮に、今現在の「絶望的」な状況・状態を、解決させる魔法のスイッチがあったら、あなたはそれを押しますか?

人間関係の問題なら、それが解決します。
家庭環境の問題でも、それが解決します。
お金の問題だって、何だって解決します。
あらゆる問題は解決してしまいます。

そんな魔法のスイッチです。押すしかないでしょう。しかし、そんなものは現実には見つからないので「あれば押したいけど、無いので押せない」状態です。

あなたの内側と向き合ってみてください。「死にたい」や「自殺したい」という思考がある時、例外なく、何処かに「救い」を求めています

それはもしかしたら「死んだら、あるいは救われるかも」という形かもしれません。

どういった形であれ、何かしらの救いを求めている状態こそが「絶望的」です。

では『絶望』とはどういった状態でしょうか?

絶望とは、望みが絶たれている状態……ではなく「望みはないと知っている・見抜いている状態」です。望みなど一切ありません。

あなたが「望みはない」と思い込んでいるのとは違います(それは絶望的です)。

実際に「ない」のですから、思うことができないのが『絶望』です。

救われるか、救われないかはわからない。そして実際は「救われなかった」と思うから絶望的になります。そもそも「救われる/救われない」の選択肢すらなければ「救われたい」という〈欲求〉もありません。

〈欲求〉が一切消えた状態が『絶望』になります。

「絶望的」と『絶望』の違いを把握しましょう

絶望とは本質です

繰り返しますが、人の肉体には、必ず『死』が訪れます。例外はありません。

寿命か、病気か、事故か、自殺か、他殺か、天変地異か、わかりませんが、必ず死にます。

それは『絶望』です。
何故なら「肉体が永遠に生きながらえる」という望みは一切ないわけですから。
そんなことを望んでも無意味です。

しかし「もしかしたら生きられるのかも?」と思うと、何かしらの〈欲求〉が生まれ、絶望的になります。

何か不思議に感じませんか?

絶望は凄く「当たり前」なのに、当たり前じゃないことを〈欲求〉すると絶望的になり、そこから苦しみが生まれているように見えないでしょうか。

あなたは何処かに救いを求めています。

それが「生」に対する救いなのか「死」に対する救いなのかはわかりませんが、何かしらの形で〈欲求〉しているのには、間違いありません。

思い切って視点を変えてみましょう。

苦しみがあるから欲求しているのではなく、欲求しているから苦しみが生まれるのです。

このパラドックスに気が付きましょう。

あなたはいつか必ず死にます

でもそれを「今すぐに!」と思考するのは、その方が何か「お得♪」に感じるからですか?

現世での苦しみが消えると思っているとか。
天国か来世では幸せになれると思っているとか。
それとも期日までに死ねば、ポイントがいつもの10倍もらえると思ってるとか。

そこに何かしらの〈期待〉があって、そうなるように〈欲求〉しています。

絶望的とは、その〈期待〉その〈欲求〉によって作られています。

『絶望』を見つめてみてください

肉体は、いつかは必ず死ぬのですから、永遠に生きながらえる望みなど一切ありません。

あなたの〈期待〉はすでに応えられているし、あなたの〈欲求〉はすでに叶えられています。

カレー風味ではなく、カレーそのものが、必ず与えられることになります。

こんなに素晴らしいことはありますか?

「私の望みはもう既に叶えられている」のですから、改めて望む必要などありません。

望む必要がない = 絶望

絶望とは「死にたい」ではありません。

いつかは必ず死ぬのですから、安心して生きるのが「絶望」です。

絶望とは本質です

最後には一番期待していて求めていたものが必ず与えられると約束されていて、そこに至るまでの道のりは、あなたの好き勝手、自由に進んでOKなのです。

「今すぐ自殺しよう! ポイント10倍セール!」などありません。

そんなものは自我 (EGO) が作り出した幻です(そして自我こそが幻です)。

あなたは今『死と向き合う』という素晴らしい機会を得ています。

であれば「カレー風味」でカレーを知った気になるのではなく、ちゃんと「カレーそのもの」を見つめてください。その為にも、美味しいカレーを食べる前に、カレー風味のスナックでお腹を満たすことはやめてください。

ちゃんと最後には『死』が与えられますから。

絶望という本質に気付き、安心して生きてください。

絶望とは本質です
思い出そう
  1. 「死にたい」や「自殺したい」気持ちがあるのは素晴らしい機会
  2. 「絶望的」と『絶望』は全くの別物
  3. 『絶望』という本質に気付き、その素晴らしい機会を無駄にしない