感覚を言葉に置き換えることの罠
ヒーリング施術をメインに据えて、人との対話を行うようになってから、自分自身の氣付きがより深まっているのを、日々実感しています。過去に起こった様々な出来事が「今この氣付き」に繋がっていたのだと腑に落ちるのです。
非常に面白いのは、それまでの「失敗」ほど、この氣付きに深く関わっていること。これが「言葉」や「思考」ではなく、ただ『感覚 – Feel』として、胸の内にスゥッと入って来ます。
自己啓発的にこれを言い表すのなら「失敗こそが財産」といったところでしょうか。しかし “言い表された言葉” からここに辿り着くのは、到底不可能だったということも、わかります(パラドックス……言葉はそれを指し示す矢印ですが、その矢印の指す方向を辿っても、そこには行き着かないのです)。
つまり、言葉ならざるものを、言葉にすると、何となく「わかった氣にさせられる」のですが、そうした瞬間に、本来のものでは無くなってしまう(本質から遠ざかる)のです。感覚は感覚のままにしておくのが良いでしょう(←この言葉すら不要です)。

言葉を介さないことの副産物
元々僕は〈かなり言葉で説明したくなる〉タチの人間でした。感情面で相手に寄り添うことは一切せずに、最短距離で目的地に到達すると考えられる言葉を投げつけることで、多くの場合で、人に(特に親しい間柄の人に)は「冷酷過ぎる」と返されていました(もちろんそうなってしまっては、目的地も何も台無しで、これは遠回りどころか “不適切” と言わざるを得ません)。
しかし、今年に入って、様々な氣付きが立て続けに起こり、必要な段階を経て『ヒーリング』というアプローチに触れ、そして自身でもそれを習得したことで、以上のような特性が、非常に “薄れた” のです(全く無くなったとは、あえて言いません)。
これを別の角度から見ると『相手の “ありのまま” を受け入れられる』ようになりました。
何故なら、ヒーリングは「相手を変える」ことではなく、ただ自然な『生命のエネルギー』を信頼して、施術をすることなので、必ずベストな結果が起こると “既に知っている” からです。

言葉という “ツール” の扱い方の上達
言葉ならざるものが中心にあると、真から腑に落ちたことで、言葉を “補佐的に” 扱うことが、以前より長けてきたと感じています。
つまり「四六時中は使わなくて良い」「使わない方がむしろ良い」と体感したことで、言葉の “使い所” が理解出来たのです。
振り返ってみれば、以前は『言葉を扱う』のではなく「言葉に扱われていた」のかもしれません。主従関係が逆になっているのは、本質の視点から見た多くのことに当てはまるのですが、僕の場合のそれは「言葉」だったのかもしれません。
さて、日記的な記事になってしまいました……
しかしまぁ、こういった “いかにもブログ” っぽい記事も良いでしょう。読まれた誰かに発見があるかは、かなり微妙ですが、これは “自分の備忘録” としておきます。
数ヶ月間、記事自体書いていなかったものですから、アイドリングの意味でも、氣ままに綴っていきたいと思います。エンジンがかかってきたら、また以前のような “読んだ方の氣付きや発見に繋がりうる” 記事も投稿しようと思います。
ただしばらくは、制作関係の仕事が立て込んでいるので、これもまた “ありのまま” の流れに委ねておきます。

思い出そう
- 今この瞬間の “氣付き” によって、過去の失敗は変容する
- ある意味それは「時間軸を跨いだヒーリング」とも言える
- 実際ヒーリングでは、時間や場所の概念を外して施術が可能