悟りを難しくしているのは一体誰?
その入口が何であれ、殆どの場合「何かを獲得したくて」あるいは「今よりも楽になりたくて」悟りというものを目指している状態かもしれません。その道で、それが何と呼ばれているかはそれぞれですが、この記事の中では〈悟り〉としておきましょう。
もし「悟るなんてことはそんなにカンタンなことではないはずだ!」と、そういった思考が出てきているのだとしたら、それは一体〈誰の認識〉によって、生まれてきているのでしょうか。
「悟った人とはこういう人だ」
「悟った人がそんなことするはずはない」
「悟りとはこういうものだと見聞きして知っている」
そんな風に〈悟りを定義〉することで、悟りそのものを難しくしているのは、一体誰なのでしょうか。もしそのような状況に陥っているようなことがあれば、それをよくよく観察してみましょう。

あなたが探しているものは、探しているあなた自身であるなら……
あなたが探すと、決してそれは見つかりません。
あなたがそれに〈探すべきもの〉というラベルを貼り、その認識で居る限り、それは〈探されるべきもの〉になり続けています。
探しているもの自身が、あなたが探したかったものです。
上の画像で述べるなら……白い彼が虫眼鏡を使って探しているものは、白い彼自身なので、永遠に見つかることはありません。
彼は「それが見つかったら、きっと今より素晴らしい人生が送れるはずだ」と考えています。
その〈認識〉がそのまま虫眼鏡に掛かったフィルタになっており、何を見ても「それが見つかったら、きっと今より素晴らしい人生が送れるはずだ」という風に見えてしまいます。
彼が見ている世界が、そのまま彼の認識であり、言わば彼自身の〈在り方〉になっています。

悟りの窓が表しているものとは?
上の画像にある『悟りの窓』が表しているものは〈超絶カンタンなこと〉なのですが、それを思考(エゴ)で捉えよう・見つけよう・知識として得ようとすると、途端に難しくなります。当然それは捉えられないし・見つけられないし・知識として得られません。もし、意味や解説の文章でそれを知ったとしても、本当にあなたが知りたかったものとは、随分と掛け離れてしまうことは否めません。
思考(エゴ)は「何もしないこと」が一番苦手です。
いつでも何かをしたいし、それによって何かを得たい。そして今よりももって未来が良くなってほしいと期待したり、殆どの場合不安に駆られています。一見それらの思考は健全のようにも見えますが、そのループの中に陥ったまま、本来の自分自身である『幸せ』に気が付くことは難しいでしょう。
『幸せ』とは獲得する状態のことではありません。幸せとは、あなたそのものであり、悟りはそのロジックを説明しているに過ぎません。だから悟ったとて、何かが劇的に変わるわけでもなく、悟りによって、現実的なこと(三次元的な事柄)が疎かになってしまう方もいます。所謂「空病」ですね。
もし幸せになりたいのなら『幸せで在る』ことです。
窓から見える風景が何であれ、幸せは揺るぎません。
そして、実際に見る風景そのものが “それ” で在ることに、自然と気が付けることでしょう。
本当に、本当に、カンタンなのです。

思い出そう
- 悟りが難しいと思考するなら、難しくしているのはあなた自身
- 探す限り見つからないのは、ロジックとしても理に適っている
- 今そのもの、ありのままを、そのままを感じてみる