自分を愛することを難しくしている「思考」の罠

自分を愛することって、本当に本当に簡単なんだけど、それを難しくしているのが「思考」ってやつ。

こんな仕組みを知ろうが知るまいが『自分を愛すること』には何の関連性もないんだけど、それでも、もし罠に陥ってるなら、陥っている罠の特性を知ることで、抜け出しやすくなるかもしれない。客観性を持ちやすくなるかもしれない。そんな風に知恵が活用できたら、良いんじゃないかと。

思考と「時間」の関連を見抜く

思考には特性があって、思考できる対象は「過去」と「未来」だけ。まずこれについて、一切の例外を作らないで「へぇ、そう言われてみればそういうもんかね」と、仮の納得でも良いから、基準を作ろう。

何故「仮で良い」かっていうと、あくまで目的は『自分を愛すること』であり、これは仮止めに過ぎない。仮止めの時点から正確性を求め始めると、脇道にそれた探求が始まる。だから一旦納得しよう。

思考できる対象は過去と未来だけ、と。

ほんじゃ「今」は?

実は、今を思考することはできない。今に対しては『感じること』のみが可能だ。
だから次のように “仮止め” をしよう。

  • 思考の対象は過去か未来
  • もしも思考が働いているとしたら、それは必ず過去か未来に対してのこと

言い方をちょっと変えただけだが、これがなかなかヒントになる。覚えておこう。

思考はただのツールに過ぎない

そして思考はただのツールだ。ハサミやセロハンテープと一緒。適切に使えばとっても便利だが、四六時中ハサミを持ち歩いていたら、邪魔なこともあるし、怪我をするリスクが増す。ハサミが〈悪〉ということもなければ、ハサミが〈絶対〉ということもない。ただのハサミ。便利に使ったら良いだけ。

少しずつまとまってきただろうか?

つまり「思考」というツールを使うと、過去か未来に必ず飛んでしまう、という感じだ。そして、ハサミなどと同じように “それを持ち続けていると、どうしても使いたくなってしまう” ことが多々ある。ハサミを持っていれば何かを切りたくなる。セロハンテープで何かを貼り付けてみたくなる。折り紙なら折ってみたくなるし、ベルなら鳴らしてみたくなる。

思考を常に持ち続けていると、それを使ってみたくなるし、使ってしまうし、そのうち使っていることにも気が付かないくらいに、使い続けている。だからおれたちは、過去をいつまでも後悔し続けたり、いつも未来を不安に思ったりするのだ。

だから “たまに” だとしても、思考というツールとは、適切な距離を置くか、適度に手放した方が良いってわけ。

愛を「考えること」は決してできない

愛に “ついて” 思うことや考えることは出来ても、愛を思うことや考えることは決してできない。
何故なら、愛は『感じること』しかできないからだ。

そして『感じること』の対象は、必ず『今』である。過去や未来を感じることは決してできない。
つまり『愛』とは『今』にしか対象になり得ないのだ。

今とは無条件である

逆の言い方をすれば、過去や未来を思考することは「条件付け」であったり「関連付け」である。

それは思考の役割でもある。思考を使うことの意味は、物事と物事を「関連付け」することにある。それは大いに役立ってきたし、これからも役立っていくのだが、こと『ありのままの自分を、無条件に愛すること』は極端に苦手だ。思考を使うと、絶対に叶わない。前述した通りだ。

  • 思考の対象は過去か未来
  • もしも思考が働いているとしたら、それは過去や未来を、条件付けたり関連付けることになる

すると「無条件に」というのが全くわからない。わかろうとすると「無条件になるには、どうしたら良いだろう?」という、わけのわからない条件を付けようと試みてしまう。まるでパラドックスだ。

自分を愛するには、ただ今を感じてみたら良い

愛とは、思考ではわかり得ないし、そもそも、わかる/わからないの対象ではない。それを思考を使って何とかしようとすると、出口の無い迷路に迷いむ。迷路には出口が無いとわかっていたら、入らないだろう。思考を使うと必ず入ってしまう。だから思考はそっと置いておけば良い。

過去や未来に行かず、今を感じてみよう
今を感じることに条件など無い。今そのものが、感じることなのだから。