悟りはゴールではなくスタート

悟りはゴールではない。
だから悟ることを目指してしまっては、延々と遠のくし、悟ってからこじらせるケースも多々ある。
「おれは悟った、悟った人間なのだ、お前らは悟ってない」と、シンプルに『悟りクソ野郎』にだってなり得るぞ。

今ある、ありのままを 100% 受け入れること。そこがスタート地点。
「いつの日か 100% になったら、自分の人生が始まるんだ」と、スタートを先送りにしてはならない。
今、どんなに受け入れがたい事実・現実があったとて、それが自分のありのままなのだ。それを受け入れろ。

ありのままの簡単さと難しさ

ありのままの自分を受け入れることは超絶簡単なこと。
それを難しくしているのもまた自分、自分の思考だ。

思考は「ありのままの自分を受け入れてはならない」理由をごまんと挙げる。
そこに正当性を持たせる。あるいはまた「一定の条件が満たされたら受け入れる」という架空の取引を持ち掛けてくる。

考えるのではなく感じる

このような課題に対して「考えて」答えに辿り着こうとすると、永遠の探求が始まってしまう。それはそれで何も悪いことではないが、幸福を何処までも後回しにする人生へと潜り込んでしまうだろう。

探求が悪いわけではない。でも「幸せを求める探求」じゃなくても良いだろう。何故なら探求は「先に幸せになってから」の方が、ずっと実りがある。成功したら幸せになるのじゃなく、幸せだからこそ成功するのだ、むしろ。

今あるありのままを『感じて』みよう。
そこには不快なで思わず目を背けたくなるモノもあるかもしれない。
しかし、そこに思い切って飛び込んでみると良い。不快さは、逃げれば増すが、中心にまで飛び込めば消えるのだ。

魅力的なツールは罠かもしれない

「○○したら確実に悟れる」というのは、悟りの探求中には輝いて見えるかもしれない。

しかしそんなものは無い。せいぜい「悟りやすくなる状態に導かれるもの」程度だ。それでも十分魅力的かもしれないが、大したことはない。ありのままの自分を受け入れるのに、障害になっているものを丁寧に取り除くか、一気に取り除くか、そのくらい。それよりは、今のありのままを、そのまま見てみる方が、よっぽど近道だし、むしろゴールそのものと言えよう。

苦しみは終わらせられる

自分の苦しみは、自分で終わらせられる。
それを他人に委ねると、永遠に終わらない。

レストランに入って、ウェイターが注文を取りに来るのを待ち続けるか、ウェイターを呼ぶかの違いに似ている。そしてそのレストランでは、ウェイターは呼ばないと決して来ないルールが敷かれている。店のルールなのだ、仕方ない。そこは合わせよう。ルールを変えるのではなく、美味しい食事を頂くことが目的なのだ。

躊躇せず呼ぼう。
それがスタートだ。