私が何をしていても親の小言がうるさくてやる気が無くなってしまう
当たり前のこととして……育ててくれたことには感謝しています。
それに、いつまでも自立できずにいる私が悪いのもわかっています。
だとしても、私が物心付いた時から、私がやること成すこと全てに、口出しされる記憶しかありません。
子供は親を選べないのは仕方ないですが、もっと色んなことにチャレンジできる家庭に生まれたかったです。

生活の細かいことまで言われるし、その言い方にもストレスが溜まります🥵
例えば、電気の消し忘れがあったとしたら「電気消し忘れてるよ」じゃなくて「何で電気消さないの! だからあなたは――」と、いちいち文句を重ねてくるんです💦

早く家を出たら良いんでしょうけど、色々事情もあって、それはまだまだ叶わなそうなんです😓
それに、小言を言われすぎたせいか、私自身、チャレンジ精神が無くなっちゃったというか、何やっても「どうせまた言われるし、やめとこ……」って、始める前から萎えちゃうんです💧
身近な人との関係……
特に家族との関係というのは、自分に深く浸透することが多いですし、逃れるのは難しい感じがしますよね💧


私の友だちには、自由奔放に生きている子も居て、親が放任主義というか、そういうのを、いくつになっても「凄くうらやましい」って思ってしまうんです😖
放任とまではいかなくても、ただ、私のやろうとすることに「がんばってみたら?」って、ほんのちょっとでも背中を押してさえくれてたら、もっと色んなことを成し遂げられていた気もするんです😯

もう今更何やっても遅いし……私がこんな性格になってしまったのは、家庭環境というか、親のせいです😭
わかりました❗️
打ち明けてくれてありがとうございます💡

全ての出来事は「私が選択した」と認めてみよう
難しいのは重々承知しています。 遠くの出来事なら「私には一切無関係だ」と、当然思われるでしょう。 遠くの出来事はひとまず置いといて、まず、あなたの身の回りの出来事を認めてみるのはいかがでしょうか? それだって到底難しいですよね。 あなたは自分の責任ではない証拠も数多く知っているでしょう。 原因となる人物や物事を、確信的に挙げられるでしょう。 しかし、それでも。 『私が選択した』と認めてみましょう。 そもそも、何故それを『認める』のでしょうか? 1つ目。 「思い込む」ではなく『認める』のです。 何故なら、事実、そうなのです。 認められませんよね、よくわかります。 しかし、あなたが認めようが/認めまいが、事実なのです。 であれば、認めてしまった方が、メリットを享受できます。 2つ目。 メリットについて。 認めることは、あなたに選択の〈パワー〉を取り戻すことと同義です。 「私が選択した」のであれば『私が再選択する』ことも可能になります。 選択や再選択のパワーを、出来事の方に明け渡してしまうと、出来事に振り回され続けます。 あなたはパワーを取り戻すべきです。 『思い出す』といっても良いでしょう。
もし「この状況を変えたい」と望むのでしたら『この状況は私が選択し、創り出した』と、認める必要があります💡


そんなの無理です❗
っていうか、そしたら何もかも私のせいって言うんですか❓
もしあなたが「それは親のせいです」という証拠を10でも100でも挙げたとしても、それも含めて『私がそれを選択し、創り出した』と認めなければ、これまで同様、いつまでもあなたは親との関係に翻弄されることになります💦

例えあなたが家を出たとしても、です💧


到底認められません😥
仮にそれが事実で、認めないとダメと言われても、受け入れがたいです😭
「ダメ」ということは無いですよ🙌🏻
ただ単に『それを選択すると、それが起こる』というシンプルな事実です💡

あなたがパワーを取り戻せば(思い出せば)再選択ができる🙌🏻
パワーを出来事の方に明け渡したままなら、これまで通り💦
シンプルにそれだけのことです💡


じゃあ私がこの家に生まれたことで「パワーを取り戻す難易度が上がっちゃった」とも言えますよね❓

もっと良い親の元で私が育っていた、そういうシンプルな選択をしやすかったと思いますし、結局「生まれた家庭次第」で、こうなっちゃったことになりませんか❓
これは〈大胆な意見〉に思われるかもしれませんが……
それも含めて『この状況は私が選択し、創り出した』と認めてみましょう💡

つまり、この両親のもとに生まれることも、自分で選択した、と🙌🏻

生まれたことも『私が選択した』と認めてみよう
「私が生まれる前のことなのに、私が選択した?」 到底認められないと思いますが、これもまた認めてみませんか? 少し視点を変えて、こんな風にも見てみましょう。 あなたが生まれたのはいつですか? 「○○年の○月○日」 それは〈私の身体〉が、母親の胎内から出てきた誕生日です。 その前にすでに、母親の胎内で生まれていませんでしたか? であれば。 父親の精子が母親の卵子に出会った瞬間でしょうか? いえ、父親の精子も、母親の卵子も、その前に生きていました。 であれば、元々〈私〉は分裂していたのでしょうか? 〈私の始まり〉は、いつ、どこからだったのでしょうか? そこからずっと辿ってみても〈私の始まり〉を見つけることはできないのではないでしょうか。 もう一度、視点を変えてみましょう。 そもそも「始まっていたのか」どうか。 〈私の始まり〉を見つけられないのであれば「始まっていない」のかもしれません。 しかし〈私〉は今ここにいる実感がありますよね? 『私は誰?』 《本当の私》とは、普段あなたが考える「これが私」よりも、実は、もっともっと壮大なのかもしれません。 『私は誰?』 《本当の私》とは、始まってもいなければ、終わることもない《永遠の存在》なのかもしれません。 『私は誰?』 《本当の私》が、これまで不在だったことはありましたか?
あなたが普段「これが私」と考えるのは、大抵、その身体の内側に収まっているものを指していますが、もしかしたら《本当の私》というのは、そんなところには収まりきらないものかもしれない……そんな視点で見てみるのはいかがでしょうか❓

あなたが、これまでその身に降り掛かった出来事全てを『私がそれを選択し、創り出した』とは認められないかもしれませんが……もし仮に、そのとてつもなく壮大な《本当の私》が、創り出してきたとしたなら、あなたが普段「これが私」と考える〈私〉に、何をさせたかったのでしょうか❓


凄くスケールの大きな話になっちゃった気がします😅

……こんな私に何をさせたかったのか、正直わかりません💧
もしそうだとしたら、もっと私を自由にして欲しかったですよ😭
例えば、それは《経験そのもの》なのかもしれません🙌🏻
そしてそこから何を受け取るか/受け取らないかの自由を与えてくれているとしたら、どうでしょうか❓


これまでの親とのことを振り返ると、受け取る他なかった気がします😓
先に述べてきた通り、あなたにパワーを取り戻さないと、選択・再選択が出来ないのです🙌🏻
あなたが「受け取る他なかった」と思われるのは、まさにその選択・再選択のパワーを、出来事の方に明け渡してしまっていたから……と考えることはできますか❓

また次のような視点もどうでしょうか❓
普段あなたが「これが私」と考えるのを〈Doing〉、そして先ほどの《本当の私》を《Being》と呼んでみましょう💡
『私がそれを選択し、創り出した』をここに当てはめて見てみます👀

Being が創り出し、Doing が選択する👆🏻
その選択を踏まえて、また Being が創り出し、Doing が選択する👆🏻
これが連続して繰り返されている、と🙏🏻


だとしたら、何で私の Being はもっと良い選択肢を Doing にくれないんですか❓
あなたの Doing がいつも偏った方を選択するので、それに寄って、次の選択肢も、偏って見えるのかもしれません👀
「AとBがあるけど、Aを選択する他なかった……Bを選択できることは認められないし、受け入れがたい」と💦

なので、どっかで流れを断ち切らなければいけません✂️
つまり『私がそれを選択し、創り出した』と認めることがキーになるのです🔑


……認めたら、本当に状況は変わるんでしょうか❓
あなたが Being なら Doing にどうなって欲しいですか❓


……自由になって欲しいし、それに、幸せになって欲しいです🌱
そうです❗
だから「自由だと気が付いて欲しい」し「幸せを選んで欲しい」と、経験する出来事を創り出すので、選択肢がどんどん狭まっていくように見えるんです❗


それって、逆じゃないんですか❓
自由になって欲しいんなら、もっと自由な経験を選ばせて欲しいです😫
先ほど例でしたら……AとBの選択肢があるなら、Aはどんどん辛くなるんですよ、明らかに💧
そうすれば、あなたはAを選びづらくなるし、Bを選ぶしかなくなる……はずだったんですけど、それでもAを選び続ける(Aしか選択の余地がないと思い込む)ので、仕方なくAが「これでもかっ!」というくらいの経験になっていく……のかもしれないですね🙌🏻


何で「かもしれない」なんですか❓
本当は、それも含めて、あなたの自由だからです💡
僕が「こうです!」と言っても、あなたはそれを選択する/しないの自由があります🙌🏻

あくまでパワーは、あなたの言うところの〈私〉にあるのです❗
この僕にじゃないですよ❓


わからないことだらけだけど……でも何か、希望が見えてきた気がします🙂
新たに何かを「わかる」必要は無いですよ💫
すでに「わかってた」ことを『思い出す』といった方が、より近いかもしれません💡

忘れないでくださいね❗
あなたには選択することも、創造することも、その〈パワー〉があることを❗


ありがとうございます😀
……何か、チャレンジできる気がしてきました🌸
できますよ❗

日常の Doing の背景にある当たり前の Being
それは決して特別なことではありません。 むしろ Doing の方が特別だと言えるでしょう。 Being は当たり前に存在しているので、当たり前過ぎて気が付くのが〈難しい感じがする〉のです。 それは「1枚のキャンバスに描かれた風景画」を観るのにも似ています。 普段は、描かれた風景を観ています。 そこにキャンバスが在るのに気が付きますか? キャンバスに描かれているのが「当たり前」なので、キャンバスが「在ること」に気が付きにくいのです。 あなたは自由な風景を描くことができます〈Doing〉。 同時に、あなたはキャンバスでも在ります《Being》。 あなたが絵を描き直すこと(再選択)が可能になるのは「その絵は私が描いた(選択した)」と認め、そして「キャンバスは今ここにある(Being)」と気が付いたときです。 1つだけ、アドバイスをさせてもらうのなら……。 これについて、様々な喩えができますが、それぞれの喩えに惑わされないでください。 (前述を含め)それらの全ては〈比喩表現〉であって、そのものを表しているわけではありません。 特別な絵を探そうとすると、キャンバスに気が付けないことにも似ています。 そして、これもただの〈比喩表現〉です。 〈私〉という〈言葉〉が「私そのものを表しているわけではない」のと一緒です。