日常の Doing の背景にある当たり前の Being

それは決して特別なことではありません。
むしろ Doing の方が特別だと言えるでしょう。
Being は当たり前に存在しているので、当たり前過ぎて気が付くのが〈難しい感じがする〉のです。

それは「1枚のキャンバスに描かれた風景画」を観るのにも似ています。
普段は、描かれた風景を観ています。

そこにキャンバスが在るのに気が付きますか?
キャンバスに描かれているのが「当たり前」なので、キャンバスが「在ること」に気が付きにくいのです。

あなたは自由な風景を描くことができます〈Doing〉。
同時に、あなたはキャンバスでも在ります《Being》。

あなたが絵を描き直すこと(再選択)が可能になるのは「その絵は私が描いた(選択した)」と認め、そして「キャンバスは今ここにある(Being)」と気が付いたときです。

1つだけ、アドバイスをさせてもらうのなら……。
これについて、様々な喩えができますが、それぞれの喩えに惑わされないでください。

(前述を含め)それらの全ては〈比喩表現〉であって、そのものを表しているわけではありません。
特別な絵を探そうとすると、キャンバスに気が付けないことにも似ています。

そして、これもただの〈比喩表現〉です。
〈私〉という〈言葉〉が「私そのものを表しているわけではない」のと一緒です。